2019/09/30
「悲しみ」に囚われて居る自分を開放するために
人は生きているうちに、いろいろな「悲しみ」に出会います。その「悲しみ」を「苦しみ」にしないためには、どうすればよいのでしょう。
キサーゴータミーのお話
お釈迦様が生きておられた2500年前、お釈迦様の弟子にキサーゴータミ―という女性が居ました。これはキサーゴータミ―が弟子入りしたいきさつの話です。
貧しい家庭に生まれた彼女は、裕福な家の息子に見初められ、結婚して子供が生まれました。
しかし、子供が生まれてしばらくすると、夫が病で亡くなり、キサーゴータミ―は幼い子供を連れて家を出なくてはならなくなります。
ところがその子供も、家を出てすぐに亡くなってしまったのです。
半狂乱になったキサーゴータミ―は、死んだ子供を抱いて、毎日、毎日子供を行き帰らせることのできる薬を求めて、村々を訪ね歩きました。
かわいそうに思った村人が、彼女をお釈迦様の元に連れてきました。
お釈迦様は、話を聞いて
「分かりました。子供を行き帰らすには芥子(ケシ)の実が必要です。ただ、その芥子の実は、”死”に穢されていない、今まで死人を出していない家から、貰ってくる必要があります。」
喜んだキサーゴータミ―はさっそく村に行き、お釈迦様の云われた芥子の実をもらうため、死人を出していない家を探しました。
ところがどの家を訪ねても
「実は何年か前に祖父が……」
「実は何年か前に夫か……」
「この子が生まれてすぐに妻が……」
「何番目の子供が事故で……」
「数十年前には父方の母が……」
といった具合で、どこにも身内の者の死に見舞われなかった家は、ありませんでした。
家々を回っているうちにキサーゴータミ―は気が付きました。
「死は全ての人々にやって来る。私一人だけが不幸に見舞われたわけではない。誰でも同じ苦しみを背負っている」
キサーゴータミ―は抱いていた幼子を葬り、お釈迦様の元に戻って出家し、尼僧になりました。
参考 岩波文庫 尼僧の告白―テーリーガーター 108頁
「~のはずがない」と考えてしまう
もし死んだのがキサーゴータミーの100歳になり祖父だったら、彼女はこんなにも悲しまないでしょう。
それは、人はいつかは死ぬものだし、100歳ともなれば、いつ死んでもおかしくないからです。
人はいつか死ぬと分かっていても、自分が生んだ幼子が死んだことに、彼女は耐え切れませんでした。
なぜかというと「幼い子供が、死ぬはずがない」と思っていたからです。そのため死んだ子供を抱いて、生き返る薬を求め、さ迷い歩くことになります。
お釈迦様の言いつけに従って、家々をまわっているうちに「人はいつか死ぬ」ものだし、多くの人が親しい人の死を乗り越えて生きていることを知り、彼女も子供の死を素直に受け入れられるようになりました。
「無常」ということ
無常とは、「すべてのものは変化し続けて、一瞬たりとも止まっていない」ことを意味します。
このことを理解していないと「~のはずがない」と考えてしまいます。
「健康な私が、病気に罹るはずがない」と考えていると、末期癌が見つかって「あと数か月の命です」と言われるとショックを受けてしまいます。
大金持ちの人が「私のお金が無くなるはずがない」と考えていると、泥棒や詐欺に出会ってお金を取られたり、会社の倒産や、株の暴落などでお金が無くなると、悲しんでしまいます。
私たちは楽しいことや好ましいことは、いつまでも続いてほしいと思い、嫌なことや苦しいことは、無くなって欲しいと思っています。
本当は喜んだり悲しんだりしながら、生きていくのです。
悲しみに憑りつかれていると、いつまでたっても悲しみから抜け出せません。
「人間だから、悲しんでもいいんだ」「悲しむのは当たり前だ」と考えると気持ちが楽になります。
良いことがいつまでも続かない代わりに、悪いこともいつまでも続かないのです。
「無常」を知ると、あらゆる出来事に一喜一憂せずに、落ち着いて暮らせるようになります。